エコロジー・Q & A

 (4月14日)

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エコロジーの部屋


 エコロジーは今まで慣れ親しんできた世界観を、根底からひっくり返してしまうほどの衝撃を与えるものである。生活様式、社会や経済のあり方、そして、信仰のあり方までも。そのために、エコロジーに対する反論や異論も多い。それは当然のことではあるが、いま、人類と地球が抱えている問題を直視し、その将来を考えるとき、お互いに意見をぶつけ合いながら、解決の糸口を見いだしていく必要がある。
 以下のQ(質問)にたいするA(答え)は、現時点における私の考えである。

1.「人の命は地球よりも重い」と言われている。地球上には不正義、争い、虐殺、差別、飢餓などが蔓延しているのに、人間よりもほかの生物や地球のことの方が重要なのか。

 この問題を考える上で、大きく二つに分けて考える必要がある。
1.まず、世界にはびこる人間を抑圧し、不幸におとしめているものの原因は、他者を無視し、人間よりも金や権力、支配力を欲するところにある。他者は自分のために存在し、他者を利用して自分の利益を守り増やそうとしている。
 他者を自分のために利用し、支配しようとする誘惑は、支配者や政治家、官僚や公務員、企業家や経済人、教育や福祉、スポーツや芸術の世界、マスコミや労働組合、宗教の世界にもある。また、家庭や夫婦、友人関係の中にさえ入り込んでくる。人間の性(さが)、業、罪とも言えるこの状況をどのようにして克服していくか、人類に課せられた大きな課題となっている。
 エコロジーの観点からすると、利用したり支配し合うことよりも共に生きる(共生)ことをもっとも大切にし、そのために、人々の苦しみや悲しみに無関心でいられなくなる。国や民族、肌の色や言葉を越えて(各自のアイデンティティを否定するのではなく)、また、言われなき差別を越えて、共に生きようとする。権利や主義主張からではなく、共に生きるものとして、彼らの痛みを共に感じようとしているからである。それ故に、エコロジストたちは社会運動や市民運動に熱心である。
2.南北格差、貧困、動乱、人種差別等は、さかのぼって植民地時代にその原因がある。植民地時代の搾取により地力や体力をすっかり奪われ、また、分断政策により民族間の憎しみを植え付けられてしまったそれらの国々が、今もその傷を克服できずに苦しんでいるのである。
 今は経済的植民地主義が広まり、新たな搾取により熱帯林が伐採され、大企業に土地を奪われ、公害垂れ流しや劣悪な労働状況により身体がむしばまれ、悲惨な状況は変わっていない。   金と権力と支配の犠牲者である。


2.共に生きるとは、犬や猫、蠅やアブを人間と同等と見なすことなのか。

 エコロジーの思想は、それぞれのアイデンティティを否定するものではない。人間は人間のアイデンティティがあり、ライオンにはライオンの肉食獣としてのそれがある。生態系とは、それぞれの存在がそれぞれのアイデンティティを生きることによって、互いに影響を及ぼし合っていることを指す。
 「人類は万物の霊長」と言われてきたように、万物は人間を頂点にピラミッド型を形成し、人間の品位とか尊厳もここにある、と考えてきたのである。私たちの発想は、ヒエラルキー(階級制度)的な上下関係にならされて、それが人間社会の中で身分階級やさまざまな差別を生み出してきた。
 エコロジーはそのような上下関係ではなく、網の目のような横の相互関係(ネットワーク)ですべてのものがつながっていると考える。平面的な「共に」という発想である。だから、人間と犬のどちらが上、といった上下関係、支配関係ではなく、生態系関係とでも言ったものによって結ばれている。
 それでは、人間のアイデンティティとはなにか。それは「人間は人間である」としか言いようがない。人間は動物と同じ線上にあり、動物と同じ存在である、とか、人間はサルの進化したものにすぎない、というのは、人間の一面しか見ていない。単純に、自然科学論のように、人間の持っている神秘性を取り除くことは、かえって人間を人間でなくしてしまう。人間とほかの動物とでは根本的に違うものがある。
 しかし、違いを優位ととらえるなら、それは人間社会の差別の構造である。家柄、学歴、民族、肌の色、そして、障害(ハンディキャップ)などが差別の原因になってきた。今、福祉の世界で言われる「ノーマライゼーション(Normalization)・それがその人の特徴である」という考え方は、このいわれなき差別を克服していく上で重要なことである。つまり、違いをそのもののアイデンティティととらえるのである。

3.人間の生き方を変えるということは、つきつめていくなら、皆、都会から田舎に行き、ヒッピーのような生活をすることになってしまうのだろうか。

 人間のすることで、完全なものとか完璧なものは一つとしてない。だから、ヒッピーの生き方が完全で完璧なものでもない。エコロジーな生き方に関して、いろんな生き方、選択肢があるはずである。
 エコロジーにとってどのような生き方やあり方がよいのか、多くの人が模索してきたし、今も模索中である。エコロジーという大きな枠組みの中で、いろんな価値観や生き方があるはずである。人間の知恵はそれを見いだすためにあるのではないだろうか。
 一般的に、極論は創造性をつみ取ってしまう。また、多くの場合、極論は自己弁護や逃避の口実になってしまうことが多い。
 ヒッピーが良いと思う人はヒッピーを生きればよいのだ。それもまた、選択肢の一つである。


4.生き方を変えると言うことは過去を否定し、人類が築いてきた歴史や文化を否定することにはならないか。

 過去を否定するというよりも、未来のために今を反省し、改めるべきところは改める、というのが自分にも他者にも誠実な生き方ではないだろうか。過去がすべて間違っているわけでもないし、また、過去がすべて正しいわけでもない。私たちは過去のために生きているのではなく、未来に向かって生きている。過去に理想郷があるのではなく、未来に理想郷をつくっていきたいのである。
否定するとかしないとか二者択一ではなく、オルタナティブ(代替可能)な発想をもっと持ちたいものである。

 Learn from yesterday. Live today. Dream of tomorrow.


5.21世紀には世界の人口が百億を越える、と言われている。地球を守るために人間などいない方がいい、と言うのか。

 人間は地球のために存在するのでもなければ、地球が人間のためにあるのでもない。こういうとキリスト教神学者は「異端だ」というかもしれない。しかし、「のために」という価値観ではそこに破壊と汚染しか残らない。利用したり利用されたりする関係ではこの危機的状況を解決できないのだ。
 エコロジーは関係(人生観)の転換を求めてくる。それは、「のために」というあり方から「とともに」という関係へ、である。「共生」と言われる生き方である。破壊と汚染の中で百億の人が生きていくのか、それがない中で生きていくのかは私たちが選ばなければならない。
 ちなみに、神はインマヌエルの神、「神は我らとともにおられる」神、共に生きる神、共生の神である。(マタイ 1:23)