エコロジーってなに?

 (2月14日)

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エコロジーの部屋


1.エコノミーはエコロジー?
 最近、「エコ」がついた言葉を耳にし、目にするようになってきた。
 「エコマーク」「エコ商品」「エコライフ」「エコハウス」等々。
この「エコ」はエコロジーの略だろうと思うが、内容的にはエコノミー(節約、倹約、経済的)の略のようである。一般的に、エコロジーの意味もエコノミーの意味で使われていることが多く、使い方に混乱が見られる。

 エコノミーは経済成長(豊かな生活)を至上のものとし、経済成長をはかりながらいかに自然と環境を守るか、という矛盾をはらんだ価値観である。

2.自然保護・環境保護運動とエコロジー
 また、エコロジーという言葉が使われる以前から、「自然保護」とか「環境保護」が叫ばれ、大きな運動となってきた。エコロジーはそれらと共通するところは多くあるが、根本のところで異なっている。それは生き方や世界観の違いである。


自然保護・環境保護運動 エコロジー
生き方  自然を守り、環境汚染を防止
することによって人間を守る
人間の生き方を変えることによって
自然を守る
自然観
自然は人間のために存在する
人間は自然の一部
世界観
人間中心の世界観
生態学的世界観


3.人間中心の世界観
 あと二年で20世紀が終わろうとしている。20世紀は戦争の世紀と言われているが、また、自然破壊の世紀でもあった。地球が誕生して数十億年、今までこれほど人間の手によって汚され、破壊された世紀はあっただろうか。いまや、平和と環境汚染や環境破壊は世界政治のメインテーマともなり、その解決なしには21世紀の展望が開けないまでになっている。
 私たちはさまざまな分野で、実に多くのものを欧米から学び、摂取してきた。政治、経済、文化や科学、そして、宗教も。その欧米思想の根底には、ギリシャ思想とそれを受け入れ発展させてきたキリスト教思想、その両者から生まれた哲学や政治、経済思想が、現代のさまざまな思想を形作っている。そのヨーロッパ思想の根本は人間である。
 現代の政治や経済、文化の中に人間の姿しか見えてこない。人間は地球上で絶対君主になり、専横的な権力を振い、地球上のすべてのものを支配しようとしている。人間は人間だけで生きているわけではないのに。

 キリスト教の世界観
 ギリシャ哲学を大幅に取り入れたキリスト教も、人間の救いと完成を目指す人間中心の宗教となった。神は独り子を「人間」の救いのために遣わし、キリストは十字架によって「人間」を救い、復活によって永遠の命が約束された、というのがその信仰である。人間だけが救われ、人間だけが神とともに永遠に生きるのである。
 たしかにキリスト教は信仰の実践として愛を説き、人権擁護や福祉、平和のために大きな影響を及ぼしてきた。しかし、その世界観の中で自然はあくまでも人間のために存在し、人間と自然、あるいは、自然の中の人間という発想はない。

 第二次世界大戦後、あまりに人間中心的な思想にキリスト教の中でも閉塞感に覆われ、また、地球規模の破壊や汚染が進行するとともに人間中心思想ではどうすることもできないことに気づいてきた。しかし、人間の救いに重点を置いてきた長い過去から、人間と自然の関係を神学的にまだ見いだせないでいる。それはあまりにアカデミックになりすぎた神学が、大地を忘れ、学問の中に閉じこもってしまったからである。
 その中で、南米の農民たちの間からわき上がってきた解放の神学が、その突破口を開くかに見えたが、神学者が介在したため農民と大地のつながりが見えなくなってしまった。
 それでも、あまりにも救済論(人間の救い)に偏りすぎたキリスト教神学から、創造論(神の宇宙万物の創造)を発展させようという動きが、最近、起きてきている。

4.生態学(エコロジー)的世界観
 遺伝学や生物学の発達とともに、人間と自然との関係が機械論的唯物論のような利用するだけのつながりのない関係から、生態学的な、地球上のすべての存在はおたがいに深く関係し合い、関連し合って生きているのだということがわかってきた。人間が生きていくために自然があるのではなく、人間も自然の一部なのである。
 人間を世界の中心とみなす世界観から、人間を含めて「地球を全体的に見る」世界観への転換である。

 すべてを経済の観点から見るのではなく、いかにして地球全体の生き物が互いに支え合いながら生きていくことができるかという観点から、自然保護や環境保護はもちろんのこと、平和運動や民族対立、人種差別やさまざまな人権運動などがなされ、ヨーロッパ諸国の「緑の党」の根本理念にもなっている。
 このような世界観に基づくエコロジーは深層生態学(ディープエコロジー)と言われている。