イエスの誕生とエコロジー
 (12月16日)

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エコロジーの部屋


 今年もクリスマスの季節がやってきた。クリスマスに醸し出されている独特な雰囲気、愛と平和がいっときではあっても世界中で祝われることはすばらしいことである。よく知られていることではあるが、「クリスマス」とは「キリストのミサ」のことで、イエスの十字架と復活(永遠のいのち)を記念し、祝い、感謝することがミサであり、カトリック教会で最高の儀式である。つまり、クリスマスとは、死と復活をもって誕生を祝うことにほかならない。
 人間が生まれてくることにはなにものにも代えがたい崇高な価値があるが、どんな家系や家柄に生まれたかは重要なことではない。その人の評価は、どのように生き、どのように死んでいったかにある。イエスの場合でも、あのような死に方をしたからこそ、その誕生に意味があるのである。誕生と死というイエスの人生を祝うのがクリスマスである。
 イエス誕生の次第はマタイとルカ福音書で述べられているだけで、他の福音書や使徒行伝、書簡集ではいっさい触れられていない。イエスの弟子たちや初代教会ではイエスの十字架と復活があまりにも強烈な出来事だったので、誕生には関心がなかったのである。クリスマスが祝われるようになるのは、イエスの誕生から400年をすぎてからである。

クリスマスのさまざまな情景はルカ福音書によるところが多い。

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。
 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。                                           (ルカ 2.1-18)


 今から2000年前、人類は救い主を待っていた。戦争、占領、抑圧、差別、不正義、貧困等に加え、飢餓、不治の病気、障害、老齢、そして、失業など現代と同じような苦しみが当時もあり、人々を救うべき宗教も堕落してその力を失っていた。神は救い主を、権力や権威、財力のある階級の人としてではなく、苦しみを受け担っていかなければならない小さな弱い立場の人間として遣わされた。
 しかし、救いを待ち望んでいたのは人間だけだったのだろうか。

 ルカ福音書のこの箇所は、聖書学者が言うように旧約聖書の影響を強く受け、神話的なニュアンスがかなり濃厚であるにしても、そこに込められているメッセージには驚くべきものがある。
 イエスの誕生に立ち会ったものたちは、父である大工のヨセフと母マリア、羊飼いと家畜、そして、天使たちである。天と地、労働者と農民、家畜に代表される被造物たち、大地と共に生き、大地と共に働いているものたちである。イエスの誕生は、天と地にとって大きな喜びであった。たしかに、そこには壮大な宮殿も、幼児を包む高価で柔らかな産着も、金銀で飾られたベットもなかった。しかし、そこには貧しいが心暖かな人々とそれを包み込む大自然があった。

 この大自然・被造物も救い主を待っていた。なぜなら、被造物も人間の原罪の結果、苦しみを耐えなければならなくなったからである。
 これは聖パウロのあの言葉を思い出させるものがある。

 「 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」 (ロマ 8.19-22)

 ここで聖パウロは驚くべきことを言っている。それは、被造物を救うのは人間だ(神の子たち)というのである。人間には虚無に服している被造物を救う責任と義務があるがあるのです。本当に驚くべきことです。どうして今まで二千年間もこれに気づいてこなかったのだろうか。
 ある人は言うだろう。これはパウロ個人の考えで、福音書には被造物の救いについては言及されていない、と。しかし、イエスは福音書の中で、神の国のたとえとしてこの自然界を幾度も用いている。種まき、イチジク、刈り入れ、ブドウの木、漁、網にかかった魚、等々。神は神の国の姿を、この自然界の中に暗号として密かに含み込ませていたのである。

 神のおん子が人間を救うために人間になられたように、人間も被造物を救うために被造物に帰らなければならない。人間も被造物の一員です。私たちが被造物の一員であることに目覚め、被造物と共に生きていく、これが「神の子たちの出現」の意味である。
 イエスの誕生を祝う私たちは、また、自分が神の子たちの一人として誕生したことを祝うのである。